風まかせ旅紀行
長野県・新潟県 北国街道 善光寺−高田ポタ Vol.1
2013年06月09日(日)〜10日(月)
2007年9月の信濃追分〜善光寺、2009年5月の小諸〜善光寺の続きを辿って直江津まで走りたい、と以前からルートは考えていたのですが、どうも行く機会を作らずにダラダラと4年経ってしまいました。その間にあの大地震。今のうちに行ける所には行っておかないと、あっと言う間に過去の風景になって体験出来なくなるかも知れない。そう考えて久しぶりに、自転車共に新幹線へ乗り込んだのでありました。
地理院地図によるルート表示はこちら(別Windowで表示します)
朝の埼玉県・熊谷駅。反対側に来た上りの「あさま」を見送って、自分は下りの「あさま」に乗り込みます。
そこそこの混雑を覚悟していたのですが、それ程でもなく座席に座って長野駅に到着。早速駅前の広場で2代目5号車を展開して出発準備完了。暑くなりそうな天気です。
北国街道、別名善光寺街道をトレースするため、先ずは善光寺へ向かいます。初っぱなから、このまっすぐで地味に登る道が結構キツいのです。[上]
仁王門までやってきました。情報によると、この裏手を右に進むのが北国街道らしい。[下]
前々回(2007年)に訪れた時は修復作業中で姿が見えなかった山門。山門の左肩に見えているのは地附山でしょうか。[左]
仁王門裏の道、地方道399号線を東へ向かいます。これが北国街道らしい。[下]
まっすぐ行くと長野電鉄の善光寺下駅。その手前で北側へ曲がります。その三叉路に建つ金物屋。佐渡の宿根木で見た三角家屋に負けず劣らずの三角形ぶりですな。
道に面して平入りで建ち並ぶ家屋。ググッと街道らしさが増してきました。
街灯に「北国街道」の文字。どうやら、先ほどのY字路では間違わずに辿ることが出来たようです。
地方道60号線との交差点に出る少し手前、吉田町一丁目あたり。手前の民家は駐車場を作る前に建物を真っ二つにしたのでしょうか?
地方道60号線に合流し、北へ向きを変える街道を進みます。徳間町辺りで歩く集団に追い付きました。
若槻東条で見掛けた大きな板碑。明治6年にこの地に完成した簡易上水道「幸い清水」を記念したものだそうです。
傍らには地元の若槻地区自治会による説明板が建てられていました。
道なりに街道を進んで田子池の少し手前にある、船地蔵尊と庚申塔。地蔵尊は江戸中期の享保4年(1719年)と刻まれているそうです。約300年前か。
更に少し先、明治天皇田子御小休所。門は飯山城の裏門を移築したものだそうです。
田子池脇を通り飯綱町との境に向かって登り続けます。田子を過ぎた辺りから、民家よりも田畑が見える時間が多くなってきたような感じ。この辺りは6月上旬が田植え時期なのですね。
主要道60号の下を潜ると、今度は緑のトンネル。
原池観音堂を右に見ながらの坂道。思い返せば、この日で一番の勾配だったような気がします。慌てず急がず・・・なのですが先の長さを考えると、ついつい焦りがち。
続く坂道を登り切り、ひとまずのピークを越えて飯綱町に入りました。白坂峠との分かれ道には現代版の道標が建っておりました。
緩やかなアップダウンが続く平出集落内を北へ向かいます。[上]
三本松まで後500m位。来た道を振り返って見たところ。長野駅が標高約360mで現在地が約610m。250mほど登ってきたことになります。[左]
「三本松の行人塚」に辿り着きました。旧道と現道が合流する地点でもあります。現地の案内板を一部引用すると、
塚は、高さ1メートル、直径7.5mほどで、地名字「行人塚」の発祥の地となっており、この塚の上に三本の松が育っています。北国街道に接しているこの「行人塚」は、修験者をまつった塚とも旅行者を葬った場所とも言われており・・・
三本松から300m余り先、再び右に逸れていく旧道に入り、牟礼に向かって下って行きます。[上]
道は途中で拡幅されていますが、あまり車が来ないので快適に走ることが出来ました。[左]
信越本線の下を潜って鳥居川沿いの牟礼宿に到着。国道18号の旧旧道に当たるのでしょうか。[下]
郵便局の交差点で旧国道18号を横断し、所々にある道案内に導かれて金附場跡に来ました。金附場とは、現地案内板の一部の引用すると、
「金附場」は、江戸時代、佐渡島で採掘された金銀を江戸間で輸送する途中に設けられた中継施設です。〜中略〜 野尻湖畔の御金蔵で一夜を明かした金銀荷物は、午前中に牟礼金附場で新しい馬の背に付け替え、昼までに善光寺宿に継ぎ送るのが恒例であったようです。〜後略
ははぁ、荷を一時保管する訳では無いのですね。
金附場跡から500m弱、北国街道と国道18号の旧道が合流する場所に小さな公園が有り、そこにこの石碑が建っていました。彫られた文字は風化のためハッキリ写し取ることが出来ません。
小玉道中堺碑といって加賀と江戸の中間を示すもので、参勤交代のため加賀藩が建てたと言われているそうです。そういえば、参勤交代はその経路も幕府から指定されていたそうですが、加賀藩が米原を経由せずに、北国街道を通らされたのは、沿道の地域振興という面も勘定していたのかも知れませんね。他にこの道を使う大きな藩は無さそうだし。
道案内に従い信越本線を越えて、国道18号の東側へ。かつての高札を復元したものが建てられていました。[左]
民家が途切れたのを堺として、急に勾配がキツくなります。小玉坂と呼ばれる辺りに来ました。予め急坂は長くないと分かっていたので、素直に押して歩いて登ります。[下]
急勾配を登り切ると、江戸時代以前からの古道と、明治9年に開鑿された新道との分岐が待っています。今回は新道を進むことに。勾配を緩和するために作られたというだけあって自転車でも進める道です。
途中から砂利敷きになりましたが、この辺りは未だ乗って進める状態。700x25以上の太めのタイヤなら乗車で通せるかも。
幾らも行かないうちに古道と合流し、その先は一里塚跡やら明治天皇御野点所跡の石碑を見ながら進みます。砂利が深くなった所は押し歩きでやり過ごして、浅い切り通しのようになった所へ来ました。枯れ葉に埋もれて気が付きにくいのですが、両側は石積みがしてありました。
無事、未舗装区間を越えることが出来ました。この区間は善光寺−高田の間でも、2番目くらいに標高が高い所。まずは一つ目の難所を越えたでしょうか。[上]
落影集落を進みます。時刻は11時半を回ったところ。自転車で遊んで居たところを昼ご飯で呼び戻されたのでしょうか、道端に小さな自転車が停めてありました。さて、もう少し先で国道18号に合流するはず。[左]
国道18号に東側から合流し、600mほど国道を進んでから西側の路地へ。田圃の向こうに見えるのは、左が黒姫、右が妙高。[上]
古間宿に来ました。「余り面影は残っていない」という評ですが、この曲がりくねった道とポツポツと残る古めの民家の並び方、十分雰囲気を感じられます。[左]
古間宿の北端で信越本線の踏切を渡り、鳥居川を渡ると国道18号に合流。間を置かずに柏原宿に到着です。なぜこんなに近くに2つ宿場があるのかな?と思ったら、古間宿と役割分担していたそうで。
柏原宿から暫くの間は国道18号を走ります。柏原から直接野尻湖畔へ降りれば国道を回避出来るのですが、折角なので北国街道をトレースします。野尻のセブンイレブンで少し補給し、その直ぐ先から旧道へ。街道に入ったつもりが旧国道ですが、まあ良いでしょう。[左]
野尻湖に到着。湖面を目にするのは久しぶり、なはずだと思いつつ、はて?以前来たのは何時だか思い出せません。歳だな。兎にも角にも、ルート上の最高地点は越えたはずだから、後は下り基調で楽かな?[下]
走行経路2、田子池から古間宿まで。
走行経路3、古間宿から野尻湖湖畔を通り二俣まで。
GPSログはこちら「log20130609_0.gpx」。カシミール3DやGoogleEarthをご利用下さい。
地理院地図によるルート表示はこちら(別Windowで表示します)
All Photographs by Ryo Masuda 2013.
Took a photograph with FINEPIX F800EXR by FUJIFILM.
Special Thanks 'ViX Ver.2.11.148.0'.1998-2002 K_OKADA
この記事は[2023.11.07]に加筆修正しました。
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Ryo Masuda / myDNS.jp / ryo-kun@fc4.so-net.ne.jp